「ねえ、ここって♯落ちてない?」
「いや、この音で合ってる筈だよ」
「だってキーから外れてるよ?」
「いや、これってテンションノートだからこれでいいんだよ」
「ん〜、なんだか気持ち悪くて嫌だなぁ」
「慣れるとコレが気持ちいいんだって」

彼女は結局、♯を付けて演奏した。

「なんで♯つけたんだよ」
「だって納得いかなかったもん」
「台無しじゃないか」
「何よ、その言い方‼︎」

彼女とはこんな言い合いも絶えなかったが、それも楽しかった。
そんな想い出も時間の流れの中で既に忘却に帰属してしまう。
俺は俺の家族と大切な時間を積み重ねていたように、彼女もまた彼女の時間を積み重ねていたに違いない。

「どうしたの?こんなところで」
「仕事の帰りさ」
「久しぶりね」
「ああ」
「仕事、頑張ってるみたいね」
「お子さんの写真見たよ。可愛いね。」
「ありがとう」

偶然の再会を祝うには騒がしい居酒屋でグラスを交わすことになった。
「やっぱり、あなたの言う通りだったわ」
「何が?」
「やっぱり憶えてないかぁ」
彼女は少し拗ねた表情で笑った。

「今の私ならわかるようになったんだから」
彼女はテーブルに溜まっていた水滴をあの頃と変わらない白く細い指先てなぞり描いた。

「♯」