音楽は心だ。
微塵も異論はなし。
漠然を加工し多くの共感を得る為には手段が必要だ。
それは演奏という表現であったり。
それは編集記録という作業であったり。
いずれのプロセスも高品質を実現させる為には同様に高い水準での理論と技術が介在するのが寧ろ自然である。
しかしながら手段のクオリティとは常に意識されるものではなく、必ずしも正しい理解がそこにある訳でもないらしい。正に天賦の人はそういう位置にあると言っていいだろう。
それでもそうした高次元での体現を行える表現者は理屈での説明をせずとも、そこに至るまでの構築プロセスをもって整然と演奏や創作に対する必然を解くことが出来る。
当然の如く悪戯に技術や論理をおとしめる発言などもしない。
称賛に値する音楽とは送り手側に根付いた明確かつ洗練された理解を根幹とし、相応しい表現力によって発揮され人の耳と心に届く。
理解とは経験や教授によって種が育まれ試行錯誤の末に華を咲かせる。
脳内で完熟した果実は途方に暮れるような反復で習得した技術、及び集積された知識との按分の末にたどり着いた独自性、実直に積み重ねられた基礎経験という器具により収穫される。
独創性や慣習に対し凡庸とする反骨心など最後に集約された表面上のスタイルだけが独り歩きし広く伝承されているのは安直にして俗物だ。
手っ取り早く音楽という芸術を玩具として玩びたい俄かクリエーターがたどり着く答えである。
音楽、ひいては芸術の善し悪しを決定づけるのが心であるということ。
それは決してきらびやかなだけではない研鑽と積算を惜しまない健やかな心であるということ。
「音楽は学校で勉強するようなもんじゃない」
「技術が音楽の質を決めるものじゃない」
以前の記事でこのように宣ったミュージシャンを糾弾したところ、忘れた頃に彼を擁護するコメントがあった。
自分としてはなかなかに大切なメッセージを含む話題でもあったので新たに書き記してみた。
決して気軽に音楽を楽しむことが悪いわけではない。
そうした素直に楽しく向き合う中からも名作は生まれる筈だし、何よりも音楽こそが心まかせに楽しむべき存在である。
しかしながら身近さが誤解され、はては軽視になっているのであれば論外ではあるし、それがまるで解ったかのような達観で騙られれば不愉快この上ない。
音楽などの芸術。
それは身近にして愛すべき隣人。
そして畏れるべき学理である。
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微塵も異論はなし。
漠然を加工し多くの共感を得る為には手段が必要だ。
それは演奏という表現であったり。
それは編集記録という作業であったり。
いずれのプロセスも高品質を実現させる為には同様に高い水準での理論と技術が介在するのが寧ろ自然である。
しかしながら手段のクオリティとは常に意識されるものではなく、必ずしも正しい理解がそこにある訳でもないらしい。正に天賦の人はそういう位置にあると言っていいだろう。
それでもそうした高次元での体現を行える表現者は理屈での説明をせずとも、そこに至るまでの構築プロセスをもって整然と演奏や創作に対する必然を解くことが出来る。
当然の如く悪戯に技術や論理をおとしめる発言などもしない。
称賛に値する音楽とは送り手側に根付いた明確かつ洗練された理解を根幹とし、相応しい表現力によって発揮され人の耳と心に届く。
理解とは経験や教授によって種が育まれ試行錯誤の末に華を咲かせる。
脳内で完熟した果実は途方に暮れるような反復で習得した技術、及び集積された知識との按分の末にたどり着いた独自性、実直に積み重ねられた基礎経験という器具により収穫される。
独創性や慣習に対し凡庸とする反骨心など最後に集約された表面上のスタイルだけが独り歩きし広く伝承されているのは安直にして俗物だ。
手っ取り早く音楽という芸術を玩具として玩びたい俄かクリエーターがたどり着く答えである。
音楽、ひいては芸術の善し悪しを決定づけるのが心であるということ。
それは決してきらびやかなだけではない研鑽と積算を惜しまない健やかな心であるということ。
「音楽は学校で勉強するようなもんじゃない」
「技術が音楽の質を決めるものじゃない」
以前の記事でこのように宣ったミュージシャンを糾弾したところ、忘れた頃に彼を擁護するコメントがあった。
自分としてはなかなかに大切なメッセージを含む話題でもあったので新たに書き記してみた。
決して気軽に音楽を楽しむことが悪いわけではない。
そうした素直に楽しく向き合う中からも名作は生まれる筈だし、何よりも音楽こそが心まかせに楽しむべき存在である。
しかしながら身近さが誤解され、はては軽視になっているのであれば論外ではあるし、それがまるで解ったかのような達観で騙られれば不愉快この上ない。
音楽などの芸術。
それは身近にして愛すべき隣人。
そして畏れるべき学理である。
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