COMO SERA : GUACO
Amazonas

それがそうであるように、それらの苦痛の中で清めんがために砂塵に穢れるのは何故なのか、そしてそれらが広い海の形をしている凡庸を思うのはどうしてだろうか

私がその広い海の岩の、および時間を備えたそれらの名前を書きたい理由。それこそは私たちであり、幸福な瞬間の記憶


最近、疲れた時は専らこの曲。元気を出すためというよりは明確な現実逃避。低調な時に無理に頑張っても結果は出ないというのが持論(やんなきゃなんない時のほうが多いんだけどね)。

"GUACO"はパワー・サルサもこなせばこういったバラーダも聞かせてくれる本当に叙情溢れるユニットだと思う。


疲れた。
・・・
といってもようやく週末を迎えただけで、物事は何も解決はしていない。
何の事かと言えば・・・仕事のこと。つまらん。

いや、別に仕事が人生の総てなんかでは決してないけど、責任ある年代と立場にあって拘束されてしまうことは已む無しだとは理解しているつもりなんだよ。

部下の不祥事、取引先の無理難題、上司の圧力。誰もが誰もの立場や言い分など考えない世界。そんなところで身を削って生活費を稼ぐ。まぁ、誰もが同じことをしているワケで、自分だけが世界中の不幸を背負ったような馬鹿を零すつもりはないんだけどね。・・・やっぱり疲れるわ。

二十歳そこそこ・・・とは言わないまでもあと十歳程若ければ転職も考えたかもしれない。・・・あ、あと独身だったらねwww。
何よりも守るべき家族があるからなんとかやってられるって話。

あー、どうしようもなくイラつく。
連日にわたる馬鹿どもとの凌ぎあい。鬩ぎ合い。

とりあえず週末だけは忘れていたい。


色々と嫌になることを列挙していったらきっとキリがなくて、それらは人との触れ合いによって生かされている限り内在するリスクなのだと思う。だけれども引きこもって総ての接点を絶ち生きていくことなど出来るワケないし、それこそ意味の無い回避であり逃避なのだと思う。

傷ついて、消耗して、切り売りするような消耗の対価が真っ当な生活であるのだとすれば、すべきに値する自傷なのだろう。

それがそうであるように。