今更ながら、しかも重ねて。
改めて想う『主張』の奥深さと難しさ。

ひいては『信念』『信条』というものにも言及することにもなるのだろうが。

意志と意義を込めた言葉は自ずと正面を持ち、その角度に於いては少なからずの共感を得ることになるだろう。
言うまでもなく反面は摩擦や衝突を生む。

聞き心地の良い言葉とは謂わば多面体、または球体のようなもの。
平等かつ多様に反射し前述の負要素を回避できるが、その輝きは大きく失われるであろう。

支持を獲得するためには負要素のリスクを度外視した魅力ある言葉を発信しなければならないのかもしれない。

求心力のある言葉には様々な要素があるのだが、総じてそれらは香辛料のような刺激ではないだろうか。
反論や逆説、攻撃的な表現は高揚を演出し扇情的な効果を醸すのだ。

生物が誇るべき能力の一つに『順応』がある。
刺激とは外圧であり、言い方を変えれば痛覚に訴えた歪曲した快楽という錯覚である。
故にどんな斬新を備えた言葉もいずれ『慣れ』によって無味無臭化していくのだ。

発信者は更なる効果を求めて言葉を紡ぎ、受信者もまたその刺激の増幅を願い求める。

そもそもがブレイキイーブンの匙加減を感覚値で手探りしつつ辿り着くのがプロパガンダなので、いく末とは過激の極みである。

さながら激辛カレーの至極を追い求めるマニアみたいなものではないだろうか。

かく言う自分も、そうした教条と扇情に満ちた言葉を求めて鬱屈した探索に耽る日々があった。

言葉の洪水で相対する主義主張を押し流すのに勝利を模した快楽を貪っていたのかもしれない。
※といいつつ、この文章自体が既に夥しく冗長化してはいるのだが。

伝えなければならないこと。
どうしても譲れないこと。
それを『主張』とするのであれば、そうした手段手法も已を得ないかもしれないとも思う。

時には誰かを傷つけたりすることもあるかもしれない。
時には誰かの憎悪を煽って対立と敵対を創り出すのかもしれない。
それらを避けることは本懐から目を逸らした妥協を受け入れるという卑劣なのかもしれない。

本当の意味で大切な人の心に寄り添うということは、そうした痛覚を与えることを恐れない気高さと唱える諸兄もおられる。

結論として。
残念ながら自分はそこまでは開き直れないのである。

多面体、球体の優柔不断をフレキシビリティとして解釈したいのは虫のいい話なのだろうか。

対決に至って、ステゴロで殴り合い、浜辺でお互い寝転んで「お前、なかなかやるな」と称え合うのは、どうも漫画の世界にしか無いと思えてしまうのだ。
人が本気で殴り合えば命を落としかねないように、衝突による決裂はそのまま決別になってしまうことのほうが安易に予想できてしまうのだ。

最新の注意をはらうこと。
言葉を磨いて角を落とすこと。
自分の中に確信を抱けるまでは続けたい作業である。